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詐病と精神医学: 精神科医は詐病を見抜けるか?〜古典的研究「ローゼンハン実験」の批判的再考〜

皆様、こんにちは!鹿冶梟介(かやほうすけ)です。

詐病(さびょう)」という言葉を聞いたことがありますか?

詐病とは経済的または社会的利益を得るために、病気であるように振る舞うことです。

要するに病気を装った「詐欺」行為です。

医療従事者にとってこの「詐病」はとても迷惑かつ厄介な行為であり、場合によっては裁判などに巻き込まれる可能性もあります…(保険がらみが多い?)。

ちなみに医師向け医療情報サイト「m3.com」が実施したアンケートによると、実に46.1%の医師が「詐病の患者を診たことがある」と回答しております。


救急外来など命に関わるような場面で詐病者がやってくると、医師だけでなく他の患者さんにとっても大迷惑となるため、現場の怒りは相当なものです。

このため病院によっては詐病リピート者に対してはブラックリストを作り、診療を断っている所も…、なんて話も時々(しばしば?)聞きます。


ところで内科・外科で遭遇する「詐病」は検査結果基づき嘘を見破ることが可能ですが、客観的指標のない精神科では「詐病」をどうやって見分けると思いますか?

…というか、そもそも精神科で「詐病」を見分けることは可能なのでしょうか?


実はこの素朴な疑問に対する"回答"となる有名かつ古典的な実験があります。

それは権威ある学術雑誌サイエンスに掲載された「ローゼンハン実験」という”禁忌研究"とも言える臨床実験です。

研究手続き上、大きな倫理的問題があるこの実験は、当時の医学会・心理学会から批判を受けるとともに、世間からは精神医療のあり方が問われました。

今回の記事ではこの「ローゼンハン実験」を中心に、精神科医が詐病を見抜けるか否かについて論じたいと思います!



【ローゼンハン実験とは?】

On being sane in insane places*. Rosenhan DL., Science, 1973

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/4683124/

*日本語に訳すと「狂気の場にいて正気であることについて」という論文。

<目的>
精神科で「正気と狂気」を区別できるかを検討する。

<方法1>
対象: 8人の正気な人(大学院生、小児科医、精神科医、画家、主婦、3人の心理士)がこの実験に参加した(男性5名、女性3名)。

手順: 被験者は12の異なる州立の精神科病院に「声が聞こえる」と訴える(すなわち1人の被験者が複数の病院にかかったことを意味する)。
「どんな声が聴こる」と聞かれたばい、”はっきりしない”、”空虚”、”知らない人の声”、”(被験者と)同じ性別”などと回答。
氏名、職業、勤務先はフェイク(偽)だったが、人柄、生育歴等は本人のままで供述させた。
入院後、被験者たちは「異常な振る舞い」をやめ、病棟では正常に振る舞った

<結果1>
8名中7名は統合失調症の診断を下され、1名は躁鬱病の診断であった。

入院期間は7~52日(平均19日)であった。

精神科病院の構造は患者/スタッフの区別がはっきりとしており、看護師や看護補助者が患者に接する時間は短く、精神科医と接する時間は更に短かった。

病院職員は非友好的で、被験者がスタッフに話しかけても返事をすることは少なかった。

無力、隔離、屈辱、烙印が病棟を支配していた。

<方法2>
手順: 精神科病院へ「偽患者を送る」と連絡した。
病院スタッフはその申し出(挑戦)に同意し「疑似患者を見抜ける」と回答した。
病院への連絡から数週間に入院した患者について統計をとった。

<結果2>
193人の新規入院患者のうち41名が「偽患者」であると疑われた。
しかし、実際に偽患者は送られていなかった…。

<結論>
精神科病院では「正気」と「狂気」の区別はできない。
精神科病院そのものが特別な状況を患者に押し付けており、あらゆる行動が「誤解」を生む。
従って、精神科病院への入院は反治療的である。

【鹿冶の考察】

<精神医学の敗北?>

この研究は当時の精神医学会にとって衝撃であり、サイエントロジーを含む「反精神医学」主義者にとっては格好の攻撃材料でした。

確かにこの結果は、当時の精神医学の敗北であったと言えましょう。

…だがしかし、現代の科学からみるとこの実験は控えめに言っても「噴飯もの」であり、疑似科学以外の何者でもありません!

その理由は以下の通りです。

1.バイアス

そもそもこの実験は、「精神科にいっぱい食わせてやろう」というバイアスが根底にあります。
臨床実験ではこのような「意図」は結果に当然影響します。

2.実験のセッティングが不明

元論文を読むと実験のセッティングが曖昧であり、被験者(偽患者)が入院時にどのように振るったのか不明です。
幻聴だけでなく、個々人がどのような振る舞いをしたのかは標準化されておりません。
また9人で12の病院に潜入に”成功"しておりますが、潜入"失敗”のケースを記載しておりません。
また一人が何回病院潜入を試みたのかの記載もありません。

3.参加者の利益相反

この論文の著者であるローゼンハン博士と被験者の関係が不明です。
ローゼンハン博士の考え通りに被験者が実験結果を報告していた可能性があります。

4.研究倫理に違反

人を対象とした研究に関しては倫理審査が必要です。
被験者だけでなく、他の入院患者にも不利益があるこの研究は事前に倫理審査を受けるべきだが、そのような記載がありません。
従って本実験は研究倫理に違反している可能性が高いのです。

5.実は精神科医は正しい診断をした?

入院時の診断は誤診(というか騙された)でしたが、実は退院時の診断は12名中11名で”in remission (寛解)”とされております。
寛解とは「病気による症状が消失した」ことを意味します。
統合失調症において”in remission(寛解)”と記載されることが極めて稀であり、1970年代当時の米国ニューヨーク州の調査では退院した300名の統合失調症患者のうち”in remission(寛解)”となったケースはゼロです。
つまりこの実験で診断した医師は最終的に「偽患者に症状はない」と判断したのです(しかし、後述しますがこの結果自体も…)。

6.実験結果の解釈がおかしい

この研究では「偽患者の詐病を入院時に精神科医が見抜けなかった = 精神医学は信用できない」という結論ですが、「偽患者の詐病を入院時に精神科医が見抜けなかった」ということにより、精神科診断の信頼性・信頼性が否定されるという訳ではありません(これも後述します)。


<性善説>

精神医学だけでなく医療においては患者の訴えに基づく医療、すなわち「ナラティブ・ベイスト・メディシン(narrative based medicine)」が患者・医師関係の根幹であるが故に、「(とりあえず)患者さんの言うことは真実」という前提で診療をすすめます。

つまり、そこには「詐欺師はいない」という性善説を前提で医療をやっているわけなのです。

...にもかかわらず、「精神科医は偽患者を見抜けなかった」と悦に入るのは些か”お門違い”であり、要するにこの研究は「患者 vs 精神科医」ではなく、「詐欺師 vs 精神科医」という異種格闘技戦に無理やり持ち込まれた話に過ぎないのです。

ちなみに米国精神医学会の診断マニュアル(DSM-III)の編集の中心人物であったロバート・スピッツァー博士は神経学者のシーモア・ケティ博士のコメントを引用し以下のようにこの実験を批判しております。

(内視鏡がない時代)もし自分が1クォート(約1L)の血を飲み救急外来でその血を吐いたら、救急医たちは出血性消化性潰瘍と診断して治療するでしょう。この場合、医学が”出血性消化性潰瘍を診断できない"と断言できるであろうか?


<この研究のオチ>

実はこの研究には壮大なオチがあります。

この論争の火種となった研究について、早期より懐疑的な目が向けられます。

そもそも「幻聴」だけで統合失調症と診断し、しかも入院させることがあるのだろうか…。

そういった疑問が当時の精神科医らの間でも生じたそうです。

そして前述のロバート・スピッツァー博士は、ローゼンハン博士に「守秘義務を守るので生データを見せてほしい」と何度も依頼します。

ローゼンハン博士は「喜んで入院記録を送ります」と返事をしますが、結局その記録は送られてこなかったそうです…。

またローゼンハン博士は、この研究に関する200ページ以上の著書を記しますが、その中でも入院時のデータの詳細は公開しておりません。

つまり生前の彼は、”ローゼンハン実験”の検証に非協力的だったのです。

そこでローゼンハン博士の死後、この研究の科学的検証が行われました。

精神科病院の記録と彼の遺した文章を照らし合わせると、不正確な記載、捏造された引用が多数見つかったそうです。

例えば査読段階では9名の疑似患者がおりましたが、査読過程で「不適切な被験者」を1名除外して合計8名のデータを集計したにもかかわらず、論文の表のデータは削除前と全く同じでした…(統計的にありえない!)。

極めつけは、被験者が合計8名とされていましたが、この実験に参加したと確認できたのはたった2名だけでした。

しかもその2名の証言とローゼンハンの記述には矛盾があったそうです。

例えば論文の中でローゼンハン博士は”被験者は入念な訓練を受けた”としているが、そのような訓練は受けておらず、「サイエンス」に掲載された定量的データについて収集した形跡がなかったそうです。

またローゼンハン実験の結果では、「病院スタッフは患者を無視してコンタクトを取らない」「非人道的」と批判しておりますが、被験者の一人によると「18名の患者に対して看護師7人、臨床心理士1人、ソーシャルワーカー1人、精神科医2名がいた。患者とスタッフの交流時間は十分あり、病院に対する印象は良好だった」と答えたそうです…。

つまり、この研究はローゼンハン博士による”でっちあげ(捏造)”だったのです(文献2)。

日本でも”ST◯P細胞事件"がありましたが、要するにこのローゼンハン博士は”逃げ切った米国版オ◯カタ”なのです!!


↓このローゼンハン実験の不正を暴いたノンフィクション。


<この実験のインパクト>

しかし、この”でっちあげ(捏造)”実験は、当時の米国精神医学会に2つの大きな影響を与えました。

一つ目の影響は精神科における”診断の標準化”です。

ローゼンハン実験が行われた1970年代の精神科では、患者さんの症状、困りごとだけではなく、生活歴、遺伝、病前性格など、「人生」そのものを俯瞰した上で、”全人的”に診断をおこなっておりました。

しかし、これは精神科医の”技量”によるところが大きく、同じ患者さんを診ても医師の診断が異なることはザラにあったのです…(ある患者がイギリスでは”鬱病”と診断され、米国では”統合失調症”と診断された小咄があるそうです)。

こういった診断のバラツキを無くすため、米国精神医学会は精神障害の診断基準DSM-IIIを完成させます。

直接の原因ではないにせよ、DSM-III作成を促した一因はこのローゼンハン実験だったのではないでしょうか?

二つ目の影響は、精神科医療の脱施設化です。

ローゼンハン実験は精神医学批判をエスカレートさせ、その結果精神科病院の脱施設化、すなわち患者を病院ではなく地域で見守ろうという動きを加速させます。

「患者さんをなるべく病院外で診る」という姿勢は小生も大賛成なのですが、米国では”脱施設化”自体が目的となり、精神科の患者さんたちの多くが病院ではなく”刑務所"で収容されるようになります。
果たしてこれが「反精神医学者」や「サイエントロジスト」が思い描いていた精神科医療のあるべき姿なのでしょうか…?

社会の理解が十分進まないうちに、こういったルール無視の”奇策”を行ったツケが米国社会に重く押しかかっていると小生は思います。


<精神科医は詐病(仮病)を見抜けるか?>

ローゼンハン実験の批判に目が向いてしまいますが、最後に本記事の主題「精神科医は詐病を見抜けるか?」という問いについて、小生なりに回答したいと思います。

結論から言うと、

ベテランの精神科医であっても、偽患者が入念に訓練された場合、初診で詐病を見抜くのは困難

と思います。

しかし、精神科の診断はその時点の症状に基づく「横断的」診断だけでなく、その症状の経過を加味する「縦断的」診断がとても大切です。

つまり、入院時点での誤診はあっても、長らくその患者と接していると…、「この患者さん、本当に病気か?」という疑問が少しずつ湧いてきます。

要するに精神科の診断は、ある時点だけではなく一定の期間患者さんを観察した上で下されるものなのです(初診時は◯◯障害(疑)と暫定的に診断します)。

入院時の暫定診断が変わるのは精神科だけでなく、内科・外科でもしばしばあることです(疑い病名をつけて検査するので)。

精神科では暫定診断から確定診断までに要する時間が他科よりも長くかかると理解していただければ幸いです。


【まとめ】

・精神医学批判の代表的論文「ローゼンハン実験」について解説しました。
・結局この実験はローゼンハン博士による捏造ということがわかりました。
精神科医が初診で詐病を見抜くことは困難であることは事実かも知れません。
・しかし、経時的関わりによる診断(縦断的診断)により、最終的には詐病を見抜けると思います
・実は小生も何例か詐病の方を診たことがありますが、それはまた別の機会に紹介しますね。

【参考文献】

1.On being sane in insane places. Rosenhan DL., Science, 1973

2.Rosenhan revisited: successful scientific fraud. Scull A, Hist Psychiatry, 2023


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